鈴木 茂 (元台東区議会議長) 1、豊臣政権の官房長官 「一人はみんなのために、みんなは一人のために」。 これは、若かりし頃の私のクラスの学級目標。「三銃士」の中の言葉だと知ったのは後年のことで、当時は詳しいことは知らないまま、ただ、先輩教師が使うこの言葉を拝借していました。人間社会のあるべき姿が凝縮されている気さえしていたのです。 さて、今から四〇〇年以上前の日本に、この理念を大事にし、自らの旗印にした武将がいました。石田三成です。言葉は「大一大万大吉」。「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は吉(幸福)になれる」というもの。「狭量」「理屈っぽい」「人望がない」、そして「敗戦の将」という括りだけで語られがちな三成ですが、この理念には、理想のリーダー像さえ見出せます。彼の実像はどのようなものだったのでしょうか。 三成は類まれな、優秀な官僚でした。豊臣政権では、秀吉の弟の秀長が、今で言えば、幹事長役、三成が官房長官役として補佐することで、円滑な運営も可能でした。あの朝鮮出兵では、文禄の役で約一五万、「慶長の役で約一四万の兵を動員しましたが、その輸送、武器、異の確保などの手配を一手に担ったのは三成です。 彼の苦労は如何ばかりだったのか。私は東日本大震災の際、時の官房長官、枝野幸男が首相官邸に泊まり込み、文字通り、不眠不休で職務を遂行したことを思い出します。その時には、アメリカTVドラマ「24―TWENTYFOUR―」をもじった「和製ジャック・バウアー」など、好意的な書き込みがネットに溢れました。しかし、三成には好意的な評価はあまりありませんでした。有名な太閤検地や刀狩りも三成のアイデアという説もあるほど、豊臣政権に貢献したにもかかわらず、です。 2、悪評の中で… 石田三成は一五六〇年、近江国の石田村(現在の滋賀県長浜市)の土豪の家に生まれました。幼い頃には、教養をつけるために近くの寺に預けられます。三成があまりに利発で、破格の出世をしていったため、いろいろなエピソードが残っています。 有名なのが三献茶。鷹狩の帰りに寺に寄り、茶を所望する秀吉に、三成は一杯目は多めのぬるい茶を。二杯目は先ほどより少し熱く、少なめに。さらに三杯目を所望されると、大変熱く、ごく少量を献上したのです。相手ののどの渇き具合を判断し、温度と量を調整した三成のこの機転に秀吉は感動し、仕官させたのでした。 実はこれ、創作だとも言われています。ただ、三成の故郷の近江地方は伊藤商事、西川産業、高島屋、日本生命などが誕生した、商業、経済の発展地域。そんな土壌で生まれ育ったことが、今、求められているものは何かを見抜く、ある意味、経営的センス、マネジメント能力を三成にもたらしたことは間違いのない真実でしょう。 三成が豊臣政権の奉行衆の一人として手腕を発揮し始めるのは賤ヶ岳の戦いの一五八三年頃から。この戦いでは、「賤ヶ岳の七本橋」と呼ばれる、加藤清正、福島正則、脇坂安治ら七人の活躍が有名ですが、彼らの活躍の陰には三成の存在がありました。 まずは兵站。三成は何と将兵五万人の、四五日分の食糧と武器を準備しておいたのです。しかも、大垣から急選引き返してくる本隊のためには、道浴いに松明を灯し、握り飯と水を用意します。また、この時、敵将の佐久間盛政は秀吉陣営の手薄だった木之本城を攻めようとしますが、三成は杭に笠をかぶせた松明を並べ、本隊の到着を偽装します。見事な作戦です。秀吉の評価が高くなるのは当然ながら、武闘派とは対立を深めていきます。 そして、対立が決定的になったのは朝鮮出兵です。実は、この朝鮮出兵、かつては老いた秀吉の錯乱とか、単なる思いつきとされがちでした。しかし、現在では周到に準備された、壮大かつ本格的な作戦という説が有力。最終的な狙いは前にあった秀音が、その経由地の朝鮮に服従と先導を求めたのが始まりです。 ―次号につづく―
鈴木 茂 (元台東区議会議長)
1、豊臣政権の官房長官
「一人はみんなのために、みんなは一人のために」。
これは、若かりし頃の私のクラスの学級目標。「三銃士」の中の言葉だと知ったのは後年のことで、当時は詳しいことは知らないまま、ただ、先輩教師が使うこの言葉を拝借していました。人間社会のあるべき姿が凝縮されている気さえしていたのです。
さて、今から四〇〇年以上前の日本に、この理念を大事にし、自らの旗印にした武将がいました。石田三成です。言葉は「大一大万大吉」。「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は吉(幸福)になれる」というもの。「狭量」「理屈っぽい」「人望がない」、そして「敗戦の将」という括りだけで語られがちな三成ですが、この理念には、理想のリーダー像さえ見出せます。彼の実像はどのようなものだったのでしょうか。
三成は類まれな、優秀な官僚でした。豊臣政権では、秀吉の弟の秀長が、今で言えば、幹事長役、三成が官房長官役として補佐することで、円滑な運営も可能でした。あの朝鮮出兵では、文禄の役で約一五万、「慶長の役で約一四万の兵を動員しましたが、その輸送、武器、異の確保などの手配を一手に担ったのは三成です。
彼の苦労は如何ばかりだったのか。私は東日本大震災の際、時の官房長官、枝野幸男が首相官邸に泊まり込み、文字通り、不眠不休で職務を遂行したことを思い出します。その時には、アメリカTVドラマ「24―TWENTYFOUR―」をもじった「和製ジャック・バウアー」など、好意的な書き込みがネットに溢れました。しかし、三成には好意的な評価はあまりありませんでした。有名な太閤検地や刀狩りも三成のアイデアという説もあるほど、豊臣政権に貢献したにもかかわらず、です。
2、悪評の中で…
石田三成は一五六〇年、近江国の石田村(現在の滋賀県長浜市)の土豪の家に生まれました。幼い頃には、教養をつけるために近くの寺に預けられます。三成があまりに利発で、破格の出世をしていったため、いろいろなエピソードが残っています。
有名なのが三献茶。鷹狩の帰りに寺に寄り、茶を所望する秀吉に、三成は一杯目は多めのぬるい茶を。二杯目は先ほどより少し熱く、少なめに。さらに三杯目を所望されると、大変熱く、ごく少量を献上したのです。相手ののどの渇き具合を判断し、温度と量を調整した三成のこの機転に秀吉は感動し、仕官させたのでした。
実はこれ、創作だとも言われています。ただ、三成の故郷の近江地方は伊藤商事、西川産業、高島屋、日本生命などが誕生した、商業、経済の発展地域。そんな土壌で生まれ育ったことが、今、求められているものは何かを見抜く、ある意味、経営的センス、マネジメント能力を三成にもたらしたことは間違いのない真実でしょう。
三成が豊臣政権の奉行衆の一人として手腕を発揮し始めるのは賤ヶ岳の戦いの一五八三年頃から。この戦いでは、「賤ヶ岳の七本橋」と呼ばれる、加藤清正、福島正則、脇坂安治ら七人の活躍が有名ですが、彼らの活躍の陰には三成の存在がありました。
まずは兵站。三成は何と将兵五万人の、四五日分の食糧と武器を準備しておいたのです。しかも、大垣から急選引き返してくる本隊のためには、道浴いに松明を灯し、握り飯と水を用意します。また、この時、敵将の佐久間盛政は秀吉陣営の手薄だった木之本城を攻めようとしますが、三成は杭に笠をかぶせた松明を並べ、本隊の到着を偽装します。見事な作戦です。秀吉の評価が高くなるのは当然ながら、武闘派とは対立を深めていきます。
そして、対立が決定的になったのは朝鮮出兵です。実は、この朝鮮出兵、かつては老いた秀吉の錯乱とか、単なる思いつきとされがちでした。しかし、現在では周到に準備された、壮大かつ本格的な作戦という説が有力。最終的な狙いは前にあった秀音が、その経由地の朝鮮に服従と先導を求めたのが始まりです。
―次号につづく―